最近、加害者の人権ばかりが尊重されて、被害者の人権が尊重されていない、といった風潮がある気がする。私は法曹界の人間でも法学部の人間でもないから、何の知識も無いので詳しい所はよく分からない。まあ陪審員制度も何年かしたら始まるらしいから他人事にしちゃいけないんだろうけど。

そんな中で、この2月19日の読売新聞の社説を抜粋。引用、か。

 軟式ボールでも、あたり所が悪ければ人は死ぬ。子供でも予測可能なはずだ――。そう言い切った仙台地裁の判決には、違和感を覚えざるをえない。

 宮城県内の公園で、三年前に起きた痛ましい事故だ。

 小学四年の男児二人がキャッチボールをしていたところ、球がそれ、近くにいた小五の男の子の胸付近にあたった。うずくまる男の子。病院に運ばれたが、間もなく死亡した。

 両親が、男児二人の親を相手取り、損害賠償を求めた。仙台地裁は十七日、請求を認め、ほぼ満額にあたる6000万円の支払いを命じた。

 ボールがあたった衝撃で心臓が停止した「心臓震盪(しんとう)」が死因だ、という認定だった。

 一般にはあまり知られていない病名だ。打撲の跡も残らない程度の弱い衝撃でも発生する場合があり、若年者に見られるという。裁判などでも心臓震盪が死因とされた例はないようだ。

 わが子の突然の死に、さぞかし両親は驚いたことだろう。一方で、無心にボールを投げ合っていた男児二人も、死亡事故など考えもしなかったろう。

 判決は厳しかった。

〈キャッチボールの球がそれて他人にあたることは十分に予測できた〉〈軟式ボールでも、あたる部位によっては、負傷したり死亡したりすることもある、ということも予測できたはずだ〉

 身体的にも発達途上の子供たちだ。球があらぬ方向へ飛ぶこともあろう。時には人にぶつけて多少のけがをさせてしまうかもしれない。「そうならないように注意しよう」。子供たちはそう思って遊んでいるはずだ。まして軟式ボールである。大人でも「人が死ぬかもしれない」などと思って球を投げるだろうか。

 「死亡」という結果責任と結びつけるためとはいえ、判決で「死亡予見も可能」とまで断じる必要があったのか。

 小中学校の野球チーム、地元の少年野球団などが校庭で行う練習、試合でもボールを投げたり捕ったりする。

 学校で同様の事故が起きれば、被害者の側は、加害者の親や指導者、自治体などを相手取って裁判を起こすだろう。

 それを嫌い、最近では休日や放課後、校庭を閉鎖する学校も多くなった。空き地も減って、ますます子供たちの「遊び場」が無くなっている。

どうだろう、この裁判。本当に無責任な事は言えないが、あまりに酷いのではないか。この裁判官は、「小学校4年生でも軟式ボールで人が死ぬ事くらいは予測が出来る」と考えているのである。果たしてそうなのか。私は無駄に25年も生きてるから、この「心臓震盪」と言うのを聞いたことはある。詳しい病名までは知らなかったけど。でも、小学校4年生が知っていたとは到底思えない。普通、軟式ボールが当たってもちょっとコブが出来るくらい、と考えるだろう。

この判決、あまりに加害者に対して厳しすぎないか。金銭的にも精神的にも。この2人の小学生の今後の人生をあまりに考えてないと思う。小学生の親達の収入とかがよく分からないから何とも言えないが、1人3千万円の負担はあまりに巨額すぎないか。単純に考えても、彼らに今後掛かる教育費以上だろう。被害者の両親の気持ちも分からなくはないけど、亡くなった自分の子供と同じ位の年齢のこの2人の小学生の今後の人生とか考えたのか。これが凶悪な犯罪行為ならともかく、ただキャッチボールしてただけなのに。それで今後一生、人を殺した過去を背負って生きていかないといけないというのか。しかも親に3千万円の負担を強いて。

どうにもこの判決が妥当に思えないんだが。ありきたりな例え話だけど「人を殺す危険性があるから自動車に乗ってはいけない」というのと同じ理屈なんじゃないか。これがまかり通るなら「人が死ぬ危険性があると知りながら自動車を製造し販売し続けた自動車会社に責任がある」もあり得るだろう。アメリカでよくある、肥満になった人がファーストフード店を相手に裁判して、「ファーストフードが肥満になる危険があると知りながら販売し続けたのが悪い」という理不尽とどう違うんだろうか。法律に詳しい人とかどう思うんだろう。

あと余談だけど、脳死患者からの臓器移植に反対してる団体の連中、例え自分の家族や親戚が臓器移植しないと命が助からない事になっても、その「臓器移植反対」という信念を曲げないんだろうか、と思う。というか、例えそうなっても絶対に曲げない、という信念の上で反対行動しろよ、と思う。あんまり関係ない話か。