年末に言った、重い保健所話の3つの内1つを。書いてみたらそんなに重くはないけど、他の2つに比べたら。

自分が毎日閲覧している投げヤリズムハトヤさんの文章の中にこんなのがあった。以降丸ごと転載。勝手に転載して申し訳ない。

趣味がテレビ観賞だ。


なのにその趣味を休みの間思う存分満喫したあとで、大学とかで「休みの日何してたの?」と聞かれてありのままに「テレビを見てた」と答えると大抵は「こいつはどこにも行かずに引きこもっていたんだな」と思われるようで「ふ〜ん」と気の無い返事をされて終わりである。


趣味がサッカー観戦のやつが「サッカー観戦してた」と言うとなんとなく納得するくせに、テレビ観賞が趣味の人間がテレビを一日中見ているのはどうも納得されない。哀しい趣味である。しかしそのことについてもう反論する気も起きない。

自分も、ハトヤさんと同じ人間なので凄く共感できる。本当に、趣味として「テレビを観る」という事が普通の人には中々理解できないようである。大抵の人にとって「日常行為」であろうからそうなのかも知れないが。例えば、お茶を飲むのも日常行為だけど、お茶を極めて「お茶のソムリエ」という民間資格を持ってる人だっている訳だし。お茶業者で仕事で取る人もいるらしいが。

この間新聞の記事にあったんだけど、医療現場でもジェンダー(性差)を考えて患者との接し方を変えよう、という例え話の所で、女性はテレビに夢中になる男性が理解できないらしい。そう言えば、明石家さんまも「サッカーの試合をテレビで真剣に鑑賞してる時に横から女がどうでもいい事を話し掛けてきて腹が立つ」と言ってたけど、それにも似てる気がする。まあ、みんなでワイワイ言いながら見た方が良い番組とかもあるんだろうけど(ワイドショーとか)、基本的には一人で黙って観たい訳である。特にお笑い番組は。一挙手一投足が見逃せない。サイト持ってる以上、何かネタがないかと真剣に観てるという部分もあるが。

妹とか母親とか見てると、本当にワイワイ言いながら見てるなあと思う。特にそのタレントの芸能ネタを絡めて。「コイツは誰々と結婚だ離婚だ付き合ってるだ別れただ」と。それに見てるかと思ったらメール打ち始めたり。全然集中しないんだなあ、と。

星新一の小説の中で「テレビを眺める」という表現がよく使われている。やっぱり、多くの人が日常行為としてテレビを見ているのは「眺める」という事なのだろうか、と思う。自分も、さっきからワザと「観る」と「見る」を使い分けている。よく音楽なんかで使われる「聴く」と「聞く」の違いみたいな物で、いかに集中力をそこに使っているか、という部分で使い分けてみた。集中力の順で言えば、「観る→見る→眺める」という事なのだろうけど。

しかし、こう考えると本当にナンシー関という人は例外中の例外な女性だったんだろうなあ、と思う。最初彼女の文章を読んだときは、男性だと思ったからなあ。世間の人は、ナンシー関とか知らない人のほうが多いのかなあ、やっぱり。彼女の文章を読んだ事のある人なら、「趣味・テレビ鑑賞」も理解できるのかも知れないけど。でも彼女みたいに、週に95時間視聴ってのは流石に無理だが。

やっぱりなあ、ナンシー関の凄さを知らない人が多すぎるのかなあ。リンクしたハトヤさんのサイトとかも参考に、他にもテレビ批評のサイトですごいのとかいっぱいあるから、読んで欲しいとは思うんだが。理解して欲しいとまでは言わないけど、そういう人間がいること位は知ってほしい。